文明は、
怒った人間が岩の代わりに、
言葉を投げつけたとき、
初めて始まったのだ。
ジークムント・フロイト
怒ったな人間が岩の代わりに言葉を投げつけて文明が始まったように、怒った人間が銃を突きつけ文明が終わるかも知れません。
自ら進んで求めた孤独や他者からの分離は、
人間関係から生ずる苦悩に対して
もっとも手近な防衛となるものである。
ジークムント・フロイト
これは自分から進んで他人から離れ孤独になることで、煩わしい人間関係を断ち自ら自分の殻に閉じこもることですか。
確かにそれなら完全なうつ状態に自ら入り込むことで全ての精神的苦悩から逃れることも出来るでしょう。
落ちていく自分を愛し、心の中で「悪いのあのは人だ」、「世の中だ」、「可愛そうなのは自分だ」と、頭で考えるのではなく、生物として受け入れたとき全ての精神的苦悩は絶ち切れるとでも言いたいのですか。
貴方のグループに属し共に研究し、やがて貴方のグループとは完全に決別したアルフレッド・アドラーはこう言っていますよ。
アルフレッド・アドラーの言葉
仕事で敗北しませんでした。働かなかったからです。人間関係で失敗しませんでした。人の輪に入らなかったからです。 彼の人生は完全で、そして最悪だった。
フロイトさん。
自ら進んで求めた孤独や他者からの分離は、人間関係から生ずる苦悩に対してもっとも手近な防衛となるものである。
これでは嫌なこと辛いことから逃れる一番簡単な方法は、人間関係を断ちきることだと言っているように感じます。
私は人間は生きていく上で人間関係を断ちきることは無理だと思います。もしそれが出来たとしても、その人の人生は最悪だと思います。
貴方は防衛となる言ってますが、自ら進んで求めた他者からの分離は、人間関係から生じる苦悩に対して、自ら更なる苦悩に突き進ませることだと私は思います。
アドラーはこう言っています。
「苦しみから抜け出す方法はたった一つ。他の人を喜ばせることだ。自分に何ができるかを考え、それを実行すればよい。」
ずいぶん違いますね。
フロイトさんは自ら孤独になることが人間関係から生じる苦悩に対しての防衛だと言うのに、アドラーさんは苦しみから逃れる方法は他の人を喜ばせることを考え実行することだと言ってます。
人間関係から生じる苦悩から逃れる方法は、他の人のことを考えないで自分の殻に閉じこもるか、他の人のことを考え行動するかのどちらかなのでしょうか。
人としてどちらが正しいか、落ちていく自分を他人のせいにして、奈落の底まで落ちていくことに喜びを感じうつ状態になるのか、苦しくても、自分の本位ではなくても、他の人を喜ばせるために自分が何が出来るかを考え自ら他人の輪に入っていくのか。
フロイトさん。貴方はどう思いますか。
貴方なら多分こう答えるのではないでしょうか。
人間関係から生じる苦悩は過去の貴方の潜在意識によるものです。決してそこから逃れることは簡単ではないでしょう。
アドラーならこう答えるのではないでしょうか。
人間関係から生じる苦悩に過去は関係ありません。「悪いのはあの人だ」「かわいそうなのは私だ」そんなことをいくら考えても無駄です。「これから自分がどうするか」その一点に集中すべきです。他人と過去は変えることが出来ない、自分が変わればいいだけだと。
フロイトさん。アドラーさん。
どのような生き方をしても行き着くところは同じでも、二人とも人間関係から生じる苦悩から逃れる方法は自分が変わるということで同じですね。
あらゆる生あるものの目指すところは死である。
ジークムント・フロイト
人生の目的に対する疑問点は
無限といってよいほどにしばしば提出されてきているが、
ついぞ満足できるような答えが与えられたことはない。
また、
そのような答えはおそらく決して許されないものなのだろう。
ジークムント・フロイト
おっしゃる通りだと存じます。これについては誰も反論できないのではないのでしょうか。人生に対する名言は答えがないことを示すものだと思います。
「カール・グスタフ・ユング」、「アルフレッド・アドラー」と並んで心理療法や人格理論を確立したフロイトさんの言葉は、心理に興味のある私にとって、人間関係を築く上で役立ってます。
人生の目的についての言葉は無限と言っていいほどありますが、誰もが満足できるような完璧な言葉は未だ見つけることができていませんね。
もしそのような答えがあったとしても、決してその答えは許されることはないのでしょう。
ある哲学者の言葉で「宗教とは絶対的な存在に媚びること、哲学とは答えが無いと分かっている答えを永遠に求めることだ。」とありました。
人生の目的があるとしたら絶対的な存在に媚びることで見つかるかもしれません。
君主に仕える家臣が、君主の喜びを生きがいにし、自分の人生を歩まず君主の人生の一部になることで見つかるかも知れません。
ただ、君主は人間です。絶対的な存在ではありません。家臣の生きる目的が君主の人生の一部なら、君主に何かあれば目的は途絶えます。
他人の喜びを人生の目的としたとき「妻の喜ぶ顔、夫の喜ぶ顔、恋人の喜ぶ顔、子供の笑顔」だけではなく、全ての人の喜びを自分の人生の目的にしたときは途絶えることがありません。
フロイトさん。
貴方の言うように「ついぞ満足できるような答えが与えられたことはない。また、そのような答えはおそらく決して許されないものなのだろう。」
私は思います。人生の目的は答えがないと分かっていても永遠に答えを求め続けるものだと。
なにかに媚びるのではなく自分で見つからないと分かっている答えを求め続けるものだと。
幸福になる方法は、自分で実験してみなければ分からない。
ジークムント・フロイト
言葉で諦める者は、現実でも諦めるものだ。
ジークムント・フロイト
本当にそうなのでしょうか、口下手な人は言葉では諦めても現実でも諦めるとは限らないと思います。
上司やパートナーが理不尽なことを威嚇や罵声で強要してきたとき、それに言葉で付き合っていたのでは切がありません。
自分が今、いくら正論を並べても、罵声で話す相手を納得させることは無理です。
たとえばパートナーが作った料理を毎日不味いと言っている人が、ある日突然まずいと大声を張り上げたら、言葉で付き合うのは止めた方が良いと思います。喧嘩になるだけです。
それよりカップめんは人間がおいしいと感じるように作られているので、味覚音痴でもなければ美味しいはずです。次の日はカップめんを出してテストしてみた方が良いかも知れません。
美味しいと言えば飽きるまで毎日インスタント食品に変えればいいし、まずいと言えば貴方自身が嫌われているのです。反省して、だまって食べてくれればいつもの料理に戻せばいいのです。
そこでまだ罵声が出るようなら人間失格です。パートナーとして相応しいか考え直した方が良いかも知れません。
言葉で返さなくても態度で示すこともありだと思います。
フロイトさん。
言葉で諦める者は、現実でも諦めるものだ。
私はそうは思えません。
最初に言葉で譲歩すれば、その次にはだんだんと事実についても譲歩してしまうものだ。
ジークムント・フロイト
ジークムント・フロイトが創始した精神分析学は現代の一部、もしくは多くの精神医学と対立することがあります。
現代では彼の創始した精神分析学は一部の人たちによって疑問視されてますが、彼が残した言葉には興味深いものが多く、現代でも多くの人に影響を与えています。
ジークムント・フロイトその人について知りたい方は 「フリー百科事典 ウィキペディア」でどうぞ。

フロイトの言葉には「人は変わらない」をテーマにした言葉が多く感じられました。その中から「おしゃる通り」と思えた言葉と「私はそうは思えません」と感じた言葉の感想を書いてみました。
最後までお読みいただきありがとうございました。